dmachiの日記

読書メモなどです。

読書メモ

『民主主義のつくり方』宇野重規2013年。

・ウィリアムジェイムズは自らの経験論を「純粋経験」と呼んだ。それがありその後から人間の意識が生まれ、世界を再構成する。それは個人の心の出来事ではなく、個人に属するものではない。その見方は、ベルクソンの純粋持続や、「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」論じた西田幾多郎と通じる。
藤田省三の『全体主義の時代経験』の「安楽への全体主義」への警告。「私たちに少しでも不愉快な感情を起こさせたり苦痛の感覚を与えたりするものは全て一掃して了いたいとする絶えざる心の動きである」。そのような傾きが人から「経験」を遠ざける。
・チャールズテイラーの『世俗の時代』の「緩衝材で覆われた自己」。そんな自己と対比されるのが「孔だらけの自己」。自己の内と外の関係ということでは、後者は外からの影響を受けやすい。自己の外に強力な精神的存在があれば、自己の精神は強く影響される。神や精霊などが、自己の身体に及ぶ。そういうものとして。前者の場合、直接に自己は外にさらされない。距離を取っている。その結果、境界線により外界と隔てられた「内面」が形成され、また「内面」が自分にとっての意味の源泉になる。
・近代社会契約論は「緩衝材で覆われた自己」と不可分。所有権の理論は、「個人が自らの身体を自己所有する」という理解と不可分だった。所有するものの取り扱いを排他的にできるということが、自分の外にあるものを所有の対象とすることにつながる。そしてそのような近代的なものは再検討課題となる。
・民主社会の個人個人は独立的な反面、共同性を欠くと、その分、国家権力の影響力が大きくなる。
・近代政治思想史を思い切って、戯画化すれば、自己の厚い壁の内にこもった個人が、他者に依存することを何よりも恐れながら、それでも何とか共存をはかるための論理を模索してきた歴史。
モンテスキューによると、権力者の権力欲という情念に比べれば、経済活動による利益追求の情念のほうが安全だった。宗教内乱以後、対話の回路としての経済活動。ハーシュマンやデュピュイ。
・ローティのいう「文化左翼」とは、マルクス主義フーコーの哲学、さらにラカン派の心理学の影響の下にらジェンダーエスニシティに秘められた権力性を告発する左翼である。彼はそれに理論志向と傍観者的態度を見て与せず、改良主義的志向を重視。

◎文章は平易だが、中身が色々つまっていた。思想史的な問題意識の文脈に不案内で読みこなせずも、一つの主張としては、民主主義の実験性、個人個人が何かを信じる権利、日本の地域に見出だされ始めている新たな可能性が、健康的に書かれていた。というか、なるほどこういう語り方もあるのかというような素朴な発見が喜びだったのと、経験や習慣が強調されたところが参考になった。