dmachiの日記

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読書メモ

『身体の文学史』平成13年文庫養老孟司。面白くて何度目かに読んだ。単純な印象として、とにかく著者の、言葉以前のもの、意識になっていない、意識にならないもの、そういうものとしての身体、そういうものへの眼差しと、自然への眼差しが、その印象が残る。身体も人の自然なので、著者は一言で自然とも言う。
この眼差しは何かといえば、著者が解剖学という方法を用いるというところのものなのだろうが、なんだか当然には共有できない。なんだけれど語られることにはなるほどと説得させられる。江戸が唯心の思想をもってして統制を完成させ身体を統御し、いわゆる身体が忘れられたという。それでも明治になって失われるまで型があった。それは日常の行住坐臥に始まるもので、日常生活が変われば型も失われる。現代はますます意識が前に出て身体が見えなくなっていると。そのための対処はできるだけその様を言語化することだという。たしかに言語化していれば身体無視の行き過ぎの弊害を止められる一つにはなるかもしれない。
ここで言われる身体というのは、中世的身体というのか、トレーニングする身体などではなく、それこそ言葉にしづらいものだ。何せ身体のことだから。身体意識でもないのであって。著者にとってはそういう身体が当たり前のもので、行間からなんとなく察せられるが覚束ない。
ただの偏見じゃ中世ではみも蓋もなくあっけなく人が殺され死に、騙し騙される、そんなネガティブなイメージもある。他方、心理主義では芥川や漱石など倫理を追求した。だから中世的な倫理とはなんだとも思った。
また、著者の眼差し自体は共有しにくいとしても、その眼差しから語られるものは、大掴みにして細かいもので、既製概念の中での話ではなくその背景を探るから面白い。社会的合意にとらわれず無視せず語る。社会的合意の枠組みに無いものを見えさせてくれる。
今回の読書ではなんとなく著者の言う身体が覚束ないもののどういうものについての言及なのかくらいは僅かにわかった気がしたがでもその眼差しはよくわからないという、そんな感じだった。しかし眼差しでもって人が見るものは個々に違うからわからなくて当たり前かとも理解できる。あと、著者の世代は世間の縛りが緩んだ時期だから戦中派とも団塊とも違うという説明にもそうかと思った。だから世間の目というのか社会的合意にとらわれずかつ無視もせずかつ思考が生きるという。普通はそれは難しく疲れることだと思う。