dmachiの日記

読書メモなどです。

読書メモ

『身体の文学史』を何度目かにおもしろくつい読んでしまう。読む毎に考えることがあるという本になっている。明治大正と進み身体の型が失われたということが指摘され、その性格が説明される。そして戦後から現代。対応として型の喪失を意識化する他ないという。この本は20年以上前の本で、現代ではまた変化があろう。日常生活の共通基盤が成り立たないところに型は立ち上がりそうもないことだ。何かしらの生活スタイルとして各人が模索するというありきたりの結論は出る。文武両道というこの本でいうとこの頭と身体の折り合いは重要だ。型が無いから若者が身体をもて余す。そのまま年をとる。欧米のスタイルも輸入される。言葉も身体もどちらも疎かにせぬ生活なり社会生活なりが成り立てばいいのだろうが、個人でそれが完結することではないところがまた難儀な話だ。

読書メモ

『音楽の危機』岡田暁生、2020年,。面白くて先が読みたくなる本だった。著者の本は『西洋音楽史』と『音楽の聴き方』も読んだがいずれも面白かった記憶があり、ただし中身をぼんやりとしか覚えていない。普段聞いているポップスが近代クラシックに1つのルーツを求めることができるということが確か書いてあった。西洋音楽の歴史が丁寧に説明され、その辿りで今の音楽の始まりが理解できるというような旨だったはずだが。中身を忘れる読書とはいかにとも思うが。
『音楽の危機』では、第九を始まりのものとして、かつ代表の曲として、右肩上がりで盛り上がる音楽として取り上げられ、その時間の経過、音楽の終え方、そこのところに着眼点が置かれていた。いわゆる最後に盛り上がって終わる型の音楽だ。そんな音楽の賞味期限が切れているんじゃないかといった話。そこで新たな時間経過の型が表現されるべきだと。また、生の音楽と録音された音楽とは異なると強く主張される。同じ空気を吸えないことには人は耐えられないのではないかという問題や、暗黙に音楽に前提されるパッケージをどう考えるかということなどが絡む。音楽の本なのにそれだからこそ人の根っこの話になるのが読んでいてとても面白かった。録音された音楽は美術に近く孤独なものという指摘も面白かった。実際にどういう場所でどう音楽を聴くかのアイデアも書いてある。社会の中での音楽の在り方も論じてあるし、音楽以外のことを考える上でも参考になりそうに思った。クロマニヨンズが、バンドで集まり演奏するだけで楽しく、観客がいたらさらに楽しくて、観客はいかなる反応でもよく、ただ突っ立っているだけでもいいと言っていたのを思い出した。つまり近代のボックスとしてのライブ空間での盛り上がり型の音楽でありながらも、観客には盛り上がりを特別には求めないというのも、実際には盛り上がる人が大半だろうが、面白い話だなと思う。本を読み、人が集うこと、音楽をやること、聴くこと、一人になることなど、漠然とそんなことを思い巡らした。

読書メモ

『ヒトの壁』養老孟司。とにかく読みやすいし面白かった。
・神様目線が生存に有効になるような社会を構築すべきではない。
というような社会論があり、
・意味は先行的に理解されている言葉の典型であろう。~意味は外部(の体系、システム)を召喚する~意味は解釈と違って、価値体系が前提にされている。
・理解は向こうからやってくるが、解釈はもともとこちらの都合である。理解は感覚系に近く、解釈は運動系に近い。理解は外から中へ、解釈は中から外へ。
・解釈は、さまざまな対象を、表現として捉えようとする仕方だ
というような人間論みたいなものがある。
・文化つまり癒しは論理ではなく何かそれ以外のもので、それ以外のすべてといってもいいかもしれない。
ともある。他にもいろんな論が雑多に語られる。

読書メモ

『小さいおうち』中島京子。どうも微妙に向きに合わないところがあった。よく言葉にしにくいが。しかし戦前戦中の東京のある家での生活が読めて面白い。けれどなんだか文章中に微妙な作為を余計に読んでしまって興がそがれた感がありそれが素晴らしいとか思えればよかったが。

読書メモ

『いのちを産む』森崎和江1994年。
いのちとは、他者の核であり、自己との共通点です、と著者は書く。そして、近代的な観念である「自己」をどう越えて、「他者」とともに、「類」を生きようとするのか、いのちを育てようとする心の働きとしての社会的父性や母性をいかに育むか、その手がかりの1つが、人びとが「いのちを産む」ことを、いかに思想化するかだと思っているとある。
人類はどこに行くのか、人間はなぜ産むのかという問いは、人間にとっていのちとは何だろうということだともある。
著者の生きた時代には父権が大手をふるった。権力以前は人は霊に従った。産むことは2人のことのはずだが、女に負わされた。ただ男たちの家制度との一体感に対応した感情が1970年代くらいに変化し始めた。個人が社会で機能しはじめた。そして束の間生産力が高まる社会で人々が豊かでいい時を過ごした。「たのしさの無い性交をすることなく過ごす」ほどに。ただ今の時代はまた新たな問いが生じる。企業と家族の役割分担が、いのちを家族に預けたものになっているが、企業も生産効率の論理ではないいのちの論理をその内側に含ませないのか、など。企業からしたら人の「体は買っても心は買わん」。

文章には積年の思索の跡を思わせられるものがあった。それが時に読みづらかった。独特な文体と陳腐なことを言えばそうで、著者の言う、自然のいのちを尊重し育む社会的親性としての社会参加の現れなのだろうかとも思えた。こういう風に物事を考え捉えることができるのかという新鮮さを感じた。以下のメモは文章中の言葉を変えて加工したもの。
・子育ての中での自分育てというその両育てへの苦闘により、母性も父性も育つ。そのことが、生殖技術に経済効率主義が入り込み、自然状況や人間関係が変化した現代において必要だ。自然の保育力は保育所より優に勝ること、また、社会に企業人として参加し、近代的自己を根拠とした自己実現に走るのでなく、他者を育成する力となる社会的父性や母性をたずさえ加わること。
・日本人の一人称は、「わたしら」と自己の内容を集団的にとらえている。
・いのちへの感動は他者認識の手がかりで、自我を分別しつつその分別を心で乗り越えさせることも可能な感性の基盤だ。
・天然自然が自浄力を保っていた時代であれば、性による役割分担は全体を機能させることができたが、今はちがい、いのちたちの自然条件を支えきれなくなってちる。
自己実現に血道をあげるのでなく、他者の発見に力を注ぐこと。産むことは生まれることであり、自己の内なる自然の開発は他者の発見そのもの。自分の死を完結させるばかりでもない。
・敗戦後の無秩序な状態は社会は闇で、自分の骨に火を灯して歩く以外になく、だからこそ産もうと願った、体験しつつよりよい社会を作る方向へと生きていくしかない。信じられるものは他になかった。
・欲張り女で生まれたまんまの自然が好きだ、自分の中の自然、男の中の自然、セックスを経て子どもという人間の魂ができあがってくることのふしぎさに直接ふれたくて産んだ、そしてやはり考えたかった、なぜ人間は人間をうむのだろうかと。