dmachiの日記

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読書メモ

『いのちを産む』森崎和江1994年。
いのちとは、他者の核であり、自己との共通点です、と著者は書く。そして、近代的な観念である「自己」をどう越えて、「他者」とともに、「類」を生きようとするのか、いのちを育てようとする心の働きとしての社会的父性や母性をいかに育むか、その手がかりの1つが、人びとが「いのちを産む」ことを、いかに思想化するかだと思っているとある。
人類はどこに行くのか、人間はなぜ産むのかという問いは、人間にとっていのちとは何だろうということだともある。
著者の生きた時代には父権が大手をふるった。権力以前は人は霊に従った。産むことは2人のことのはずだが、女に負わされた。ただ男たちの家制度との一体感に対応した感情が1970年代くらいに変化し始めた。個人が社会で機能しはじめた。そして束の間生産力が高まる社会で人々が豊かでいい時を過ごした。「たのしさの無い性交をすることなく過ごす」ほどに。ただ今の時代はまた新たな問いが生じる。企業と家族の役割分担が、いのちを家族に預けたものになっているが、企業も生産効率の論理ではないいのちの論理をその内側に含ませないのか、など。企業からしたら人の「体は買っても心は買わん」。

文章には積年の思索の跡を思わせられるものがあった。それが時に読みづらかった。独特な文体と陳腐なことを言えばそうで、著者の言う、自然のいのちを尊重し育む社会的親性としての社会参加の現れなのだろうかとも思えた。こういう風に物事を考え捉えることができるのかという新鮮さを感じた。以下のメモは文章中の言葉を変えて加工したもの。
・子育ての中での自分育てというその両育てへの苦闘により、母性も父性も育つ。そのことが、生殖技術に経済効率主義が入り込み、自然状況や人間関係が変化した現代において必要だ。自然の保育力は保育所より優に勝ること、また、社会に企業人として参加し、近代的自己を根拠とした自己実現に走るのでなく、他者を育成する力となる社会的父性や母性をたずさえ加わること。
・日本人の一人称は、「わたしら」と自己の内容を集団的にとらえている。
・いのちへの感動は他者認識の手がかりで、自我を分別しつつその分別を心で乗り越えさせることも可能な感性の基盤だ。
・天然自然が自浄力を保っていた時代であれば、性による役割分担は全体を機能させることができたが、今はちがい、いのちたちの自然条件を支えきれなくなってちる。
自己実現に血道をあげるのでなく、他者の発見に力を注ぐこと。産むことは生まれることであり、自己の内なる自然の開発は他者の発見そのもの。自分の死を完結させるばかりでもない。
・敗戦後の無秩序な状態は社会は闇で、自分の骨に火を灯して歩く以外になく、だからこそ産もうと願った、体験しつつよりよい社会を作る方向へと生きていくしかない。信じられるものは他になかった。
・欲張り女で生まれたまんまの自然が好きだ、自分の中の自然、男の中の自然、セックスを経て子どもという人間の魂ができあがってくることのふしぎさに直接ふれたくて産んだ、そしてやはり考えたかった、なぜ人間は人間をうむのだろうかと。