dmachiの日記

読書メモなどです。

『天然知能』感想

 2019年郡司ペギオ幸夫著。物凄く面白い本なのだけれど、読んでいる時は、それなりに集中しており、論じられていることについていく。のだけれど、読んで間を置いてみると、何の話だったっけともなった。普段考えていることと異なる水準の思考なので、忘れてしまうのかもしれない。けども、タイトル通り、天然知能についてあくまで語られる。それは、「異質なものの到来を待つ存在」でそんな存在様式だ。印象に残った文を不正確ながら文の形を変えつつ取り上げる。括弧内は最後のもの以外は自分の記。

 

・「わたし」を特定の文脈として固定しようとしても逸脱し、外部が押し寄せてくる。(際限のない文脈)

・視界の先にまだ何かあるだろうという確信が「向こう側」感。

・「おのずから」から「みずから」への変化自体を取り込んだ描像、それが、1.5人称的描像であり、天然知能。

・わたし自身は、何らかの理由があって存在しているとは思えません。~それ自体として存在するという事実だけでしか、その存在を根拠づけられない。むしろ、「存在それ自体」こそが、目的因だと思われるのです。

・自分は能動的な意思決定者として振る舞っているが、他者によって受動的に動かされているだけかもしれない、しかしそれが翻って、わたしの能動性なのだ、という感覚こそ。「わたし」の能動性の起源かもしれないのです。

・(脳内他者や他者との)「もつれ」型の境界は、自分の外部に存在する他者を、全く知覚できないにもかかわらず、感じとることができる。「何か」が自分を動かしているかもしれない、という自分の受動性を感じることができるのです。

・(その何かがノーバディで)「わたし」は「ノーバディ」の指示対象を略奪できるのです。~わたし自身を動かす身体操作感を、「わたし」が持つことができるというわけです。徹底して受動的な「わたし」が、ノーバディの能動性を略奪する、それこそが、「わたし」の能動性だというわけです。

・物質として個物化し、「おのずから」生を享けた「わたし」が、主体的に、能動的に、「みずから」世界に向けて働きかけるようになれる。「おのずから」から「みずから」への転換ともいうべき変革は、内と外の境界が「もつれ」ている以外に在りえない。(もつれは、融合や分離ではなく、区別がありながら未分化というもの)

・「ダサカッコワルイ」は、かっこワルイことで意図と実現の間にギャップを開き、ダサいことで無際限な外部を呼び込み、意図と実現の間を開きながら閉じ、閉じながら開くのです。自由意志・決定論・局所性の文脈で述べるなら、「ダサカッコワルイ」は、文脈を逸脱することで(逸脱は以前の指定を前提にします)自由意志を開設し、決定論の存在と不在の間を不断に運動することで決定論を宙吊りにし、その運動の原因となる無際限に異質な外部を、局所性の不在によって召喚するのです。それが天然知能の性格なのです。

・年齢的にふったってからわかっても、少し遅い。異質なものを受け容れ続けることにしか、外部に開かれる術はないのです。若いあなたもまた、ふったち、天然知能を全開にするなら、比較して評価するしかない世界とは、違うものが見えてくるに違いないのです。 

 

 本書には意識の三つの類型が書かれているが、それは個人的な経験を鑑みて、なるほどなと思うところがあった。個人的な容易に言葉で説明しづらい感覚を説明してもらった感じだ。本書の説明を、あああれか、と、なんとなくわかるという感じ。この本は、専門的な事柄を用いて語られていることが多いけれど、普遍的な物事を扱っている、と思う。だから、個人的な事柄に対しても腑に落ちることがあるんではないかと思う。そして、本書の論考とはまるでかけ離れたような個別的な状況に対しても、参考にできるんじゃないかなあと思った。今これを書いていて思ったのは、天然知能は、自己や他人や場や身体への配慮とその文化様式と通じるなあということで、これは全くの主観的連想で、本書の論旨とは違うのかもしれないけれど。