dmachiの日記

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『貧乏は正しい!ぼくらの未来計画』感想

 橋本治著、文庫で読んだが、1999年のもので、単行本が1996年、雑誌連載が91年から95年。第一章が「資本主義はもう終わっているかもしれない」で、その結末に、バブル崩壊後には「不景気からの脱出」はもうないと書いてある。不景気も好景気もないと。実際そのようになっているっぽく、著者の見据える目が確からしく思える。全体を通して、近代の資本主義の話が続くのだけど、その説明のために、産業革命の話や、市民革命や市民とは何かという話や、王様と貴族と農民とそこから出現した商人の話や、日本の会社の話や、日本人や日本の会社の話や、家の話など多岐に渡る主題がめぐる。

 資本主義には二通りの人がいて、金を貸す投資家と、金を借りる経営者。借金が資本主義の元にあり、金を貸す側は利子を求め、借りる側は借金を元に事業を起こしお金を儲けて利子を返す。資本主義の主要な登場人物はこの二種類の人。

 その始まりがイギリスの産業革命。その内実が、王様と貴族や地主が、農民に働かせて自給自足的な社会を営んでいたところに、都市の少数派の人としての市民としてジョンケイが織物の機械を発展させた。そのことで大量生産が起きた。そこに産業が生まれた。石炭を使う蒸気機関の52年前。そして、その動機はお金を儲けたいから。インドとイギリスの関係で言えば、綿はインドで取れて、綿織物もインドで作られていたところ、イギリスは、インド人の職人の手を切るという象徴的なことをやってまで、イギリスで大量生産された綿織物をインドに売った。つまり、19世紀の野蛮な時代は、他国を国内にするという考え方で植民地が作られ、その発想が、資本主義の勃興期、工業化の時代の商売と関わっている。大量に作られた商品を売る市場を作り、さらには、投資先として考えれば保護国化もする。イギリスが中国にしたように。というように、19世紀の貿易や商売は軍事力と結びついていて、そしてその構図は、20世紀にも残っていることが書かれる。戦争は行われにくくなっているが、商売、貿易というのはそのそもが侵略的な要素を持っていると。

 そんな風にいろいろな近代資本主義に関わる話が続くが、例えば、金を貸す投資家と、金を借りる経営者の関係で言えば、経営者が経営する会社が順調に事業を進めていき利潤を得れば、会社にお金が余る。とするとお金を持った会社が投資家にもなる。そこで資本主義はお金を投資して利子を得て、投資される会社は大きくなるという永遠の運動をする他ない、という特徴を持つところで、お金を持った素人が投資先を見出せないままにお金にお金を投資することでバブルが起きてはじけたという。

 お金が余る前には、色々な商品が大量の消費者の元に大量生産されて届けられるというプロセスがあった。いわゆる後進国の経済成長モデルとも言われるものだろうけど、それが終わり投資先が無くなれば、資本主義の原則がもう終わる段階にくるという話。高額な商品が低額な商品として大量の消費者に行きわたるというプロセスが、もうこれからは起こらないあるいは起こりにくいという話だ。

 色々な著者の興味深い話が書かれているが、結論のようなものとしては、会社が大きくなるという方向性はもう無理があるから、大きくならないという方向性を考えるべきだということになる。その昔王様や貴族は働かず政治をやり、農民に働かせていた、その時に自分で働いてお金を儲けるという市民は新しいことを行う存在だった。その結果、力を得た市民が身分に対抗して、世の中のシステムに参加する権利を獲得していった。そして市民はお金持ちになり投資家になったが、その大きな力は元々偉かった王様や貴族と同じようになった。だから、もう大きくなるのはやめようという話。

 実際は、投資先を作られ大きなものはさらに大きくなっていっている。例えば人間の生な欲望も投資先になった。著者の考え方にはどこか、人が人として生きている実感をちゃんと得ることができる社会じゃないと意味がない、というところがある。人生を描く作家ならではと言えるけど、その考察の力は尋常じゃない、と言っていいと思う。さらりと平易に事実を説明する言葉を生み、現実の推移や内実を人間の事情を抜かさずに論理にする。一読者としては、その論理のボリュームを読みつくせないが、その説明で理解できることが多く単純にためになる。そして著者の自由な提案には社会や人間を見守る作家の良心を見ることができて、読者としての良心を考えることができる。