dmachiの日記

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『日本人はなぜ無宗教なのか』感想

 1996年、阿満利麿著。著者は、キリスト教や仏教など特定の人物が特定の教義をとなえそれを信じる人がいる宗教を創唱宗教、自然発生的にひとりでに続いてきたものを自然宗教とわけている。

 日本では自然宗教がありながら、日本人はそれを自覚していない、それが人々が自らを無宗教という理由。そこには、創唱宗教が社会で避けられてきた歴史もあり、それも理由となっている。

 古代や中世は神仏と人が共にいた時代であり、どうも霊への畏怖や地獄への恐怖が社会の背景に一緒にあったらしい。だから、そんな感情をおさめるために宗教は当たり前にあった。鎌倉仏教もそんな経緯で出たらしいが、その時期は社会動乱の時期でもあるからそれも影響しているのかもしれないと思う。

 室町時代になると宗教が、儒教と共に現世中心の信心を示す例が出てくる。それが武家豪農や豪商に広まったことが特定の宗派に無関心な無宗教の始まり。

 近世になり16世紀17世紀になると新田開発などで、経済的な余裕が出てきて、仏教のいう無常の世を享楽的に楽しむ人生観が出てくる。

 そして家制度が整えられて、仏教が寺と共に社会制度に組み込まれた。そこで死者の弔いや供養という面で、仏教が頼られつつ、自然宗教としての村や家の祖先信仰などと折り合わさって、葬式仏教ができた。ただここで本書の文章をこうまとめたが簡便に過ぎるっちゃ過ぎる。実際は、諸々の歴史の経過や多様な事情があったと思う。

 これまでのまとめが一章と二章で、三章が近代のこと。国家神道と他の宗教との関係などが書かれてある。四章が、日常主義と宗教の関係を、柳田国男きだみのるを参照しながら描く。日常主義は、17世紀に強まったとされて、力を持ってきたムラがその集団を重視して、人々の心情や物質的な富を平衡化、平等化する特徴がある。よく言う「出る杭は打たれる」という現在にも続く心情に連なるものだろうと思うし、世間というものとも関わるだろうが、それこそ自然宗教的な無自覚の信心みたいで、日常主義は興味深いけれど、それこそ「ムラ社会」という共同体を指す言葉は今では批判の言葉になっている。本書では日常主義がなぜ宗教に優位したのかが研究課題だと書かれている。現代の人々の共同の仕組みと、ムラの日常主義がどうなっているのか、さらには宗教や宗教心はどうするべきかは今の課題となっているといっていいと思う。

 六章が最後で源左という妙好人のことを書きつつ、宗教の持つ意味を説明してくれる。個々のムラムラではある宗教が安定的に続くことがあることも示される。

 社会がうまく自然宗教的なものを共同の仕組みとして機能させることができれば、いわゆる葬式仏教と共に一つの安定を得る、そんな過去があった。けども今は実際はそういっていないようで、集団を中心とした共同の作法と、個人個人を中心とした共同の作法がどちらも求められるっぽく、個人個人がそこのところを考えなきゃいけない状況にある。ただいずれにせよ、過去がどういうものだったかを知っておくだけでもいい。