dmachiの日記

読書メモなどです。

読書メモ

『なぜ人に会うのはつらいのか』斎藤環佐藤優2022年。「会うことは暴力だ」「一人では欲望を維持できない」というコピーに惹かれて読んだが、その辺りのことはいくつかある社会評論や分析の中の一つの話題といったもので、深くは掘り下げられていなかった。人に会うのはどんな相手だろうがそれぞれの持つ領域を侵犯し合う行為で、暴力性をはらみ、目の前に人間がいるというのは、それ自体が自我境界を脅かす出来事だ、と語られ、また、「欲望は他者の欲望である」というラカンの言葉のように、欲望や意欲は自分の中から自然に芽生えるもののように見えて、自分の内面をほじくり欲望を見つけられるよほどの天才でないかぎり、実は他者が起源で他者から供給し続けてもらわないと維持できないという。コロナ禍に起きた変化の最中に、平常の事柄を見る機会だという視点で語られる。会うことの暴力性には、言葉に負の印象があるが、欲望の維持など何らかの意味がある。
あとは、新文書主義、日本の同調圧力は・俺は得したいではなく・自分だけ損するのは嫌だ・人と違う状況にはなりたくない、という箇所に注目した。

読書メモ

国民国家がどんなものかが気になって、ヨーロッパでの成立過程を調べる力無く試しに何度目か『国家を考えてみよう』を読んだ。なんとなくだが国家がどんな風にあるのかが理解できた。それと同時に橋本治の洞察や理解や説明の仕方が只者ではないといつものことながら感じた。メモ。
<国家には、国民を中心として考えるか、領土を中心として考えるかの2種類ある。
20世紀の2つの世界大戦はヨーロッパの国境を画定するための戦争だとして過言ではない。
日本の封建制度は保証をしてもらえるならば、自分のためになるし働くというもので、鎌倉幕府は組合みたいなもので、システム的な関係だが、一方で、主君に忠義を尽くすというのは儒教由来の封建道徳。
国民国家は歴史が浅く、国家は周囲を取り込み拡大しようとする性質を持つ。
国家主義は、国家になりたい主義か、国家をなんとかしよう主義のどちらか。
国家はだれのものか問題が国家にはまとわりつく。
民主主義に変わった頃は、国民の政治参加は権利だが、定着したら義務になる。政治を担当するのが国民しかいないから。>

読書メモ

『日本人と組織』山本七平。2007年に出された本だが文章は1970年代後半に書かれたもの。西欧と日本の組織を比べながら、どういったものか、どう考えるべきか、どうすればいいのかが論じてある。日本の組織の行き詰まりという問題意識がある。結論には長期的で基本的な発想として、組織の基本という「本文」と欄外の「注記」を記録して歴史的に参照可能な状態にするということが示される。先例主義により社則を無視していこうとも「注記」があれば経緯を整理でき、その上での判断が可能になるというところだろうか。西欧の場合はバイブルという本文が確固とあり、組織への考え方も規則やルールを確固として守るといった風だ。また神への尊と、組織のルールへの尊の二つへの尊が可能であり、二君に仕えずではないから、ある組織がだめになっても歴史の積み上げの上で別の組織と契約すればいい。日本では組織への尊それのみになるので、状況が悪くなると身動きが取れなくなると。だからといって西欧型が全面的によくて日本型が全面的に悪いという話ではない。日本的な情動的な対応力による成功もある。その前提として、組織が外的成果として求める対象をちゃんと持つ場合というものがある。そしてそうでなければ組織が自転し自己絶対化しやすい。だからこそ欄外の注記が長期的には必要じゃないか。それにより組織が歴史化され、その上で将来への方向性がわかると。そういうところだったと思う。本では組織の自己絶対化への懸念があり、信にかかわるものが肥大化する懸念もあれば、すべてが世俗的になった組織が絶対化する懸念もある。「どうでもいいものとしてそこにある」という絶対的な保証を得たものとしてあるという状態への懸念だ。といったところで、本文と欄外注記という考えが、日本型の場合どうなるのかというところは曖昧だが、欄外的なものの余地を残すことの意味はよくわかる。他に、日本は盆地文化といった指摘が面白かった。京都も奈良も山に囲まれた平地という枠内の文化だと。富山は山岳信仰が遅くまで残った場所らしいが、山があり川が平地を潤し、作物をもたらし、海に流れていくという様がよく見られるという。

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『ポエムに万歳』2016年。2010年前後に書かれたコラム集。著者のコラムをいくつも読んでいるとその内癖になった。癖になったが続けて読むとくどく感じた。一文一文やその流れ自体を読みたくなるからだと思うが。しかし間を置くとまた読みたくなり読めば面白いし落ち着く。何か親しみや落ち着きを感じさせる著者のスタイルがある。ファンのミュージシャンの曲をずっと聴いているとさすがにその内他のをとなる。けどもまた聴きたくなる。そんな感じに似ている。要は贔屓になった。

読書メモ

米原万里の「愛の法則」』2007年。講演集かつ短いのでさらりと読める。国土を海に囲まれた日本は「心の国境」を持つ必要性が低かっただとか、人間の心の振動は別な人間の心の振動と共鳴し合うとより深くより大きく喜怒哀楽を味わえるだとかの話ないし言い方が印象に残った。さらりと読めるし言語感覚のセンスを味わえた。

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『〈私〉時代のデモクラシー』2010年。日本社会について明解に説明がありとても面白かった。人々を仕切りで分けていた中間集団が崩壊して、突如不平等が人々の前に現れた。平等化のグローバリゼーションだ。そこにいかなる他者とも平等だとする個人がいて、しかし異なる他者が発見されるという話。そこでいかに社会に値するものを〈私〉が〈私〉たちにつなげる中で築くかといったような話だったと思う。一部分の雑なまとめだが。しかしとても丁寧に文章が綴られていたようにも思った。ただやはり平等化の流れで社会の仕切りが無くなってみたら色んな人々がいて不平等が凄いなと意識され得るという話はとても端的でわかりやすかった。そこでは仕切りが無くなる理由がトクヴィルのいう平等化がグローバルに進んだからだとされている。一見世界的な市場原理の拡大など経済的なものが理由に思われそうだが。他方それは世間がバラつきこわれて従来のようには機能していないという物言いと一致するように見える。また、橋本治が新書で言っていた、社会があっての個人という本来を忘れた、最初から個人がありややもすれば個人のための社会という発想の、その両者の対比が思い出された。

読書メモ

『地雷を踏む勇気』小田嶋隆2011年。
コラムが十数篇。どれも面白い。震災時前後の空気感を想起させてもくれた。一気に読んだが、思うに一つ一つのコラムがそれぞれ完結されたものとしてあり一つ一つの読後感を味わうのが読み方として適当らしく贅沢かと思った。当たり前といえば当たり前だが。