dmachiの日記

読書メモなどです。

『一神教VS多神教』感想

 2002年岸田秀著。主に一神教の話が多く、否定的な話。差別されたことから一神教が始まり、血縁と切れたリーダーや地縁から切れたところや文字の機能によって、抽象的な神が生まれたという。差別から始まったので、その後も、その怨念で他の宗教を認めず排撃的だったり、抽象の神がいないということに対して理性主義や科学も発達したなど、そういうお話がされる。歴史的事実を踏まえつつも、岸田氏の精神分析を前提とした分析手法で、まあストーリーとして語られる。インアタビュアーが岸田氏に色々質問しながら。一神教といっても、ユダヤ教イスラム教と違い、キリスト教は、自分たちの神様という意識が弱く、その信仰と自分たちの神様ではないかもというズレが、様々なものを生んだ運動となったという話。刊行された年から、2001年のアメリカのテロを前提しているのだろうし、雰囲気は一神教をどうにかしないといけないというもの。しかし、一神教は、他の正義を認めず自分たちの正義が絶対だという立場をとるので、多神教のような他の正義も認める方は弱い。多神教的な他の正義も認める在り方がいいと言いつつも、一神教に対してではどうすればいいかというと、どうしたらいいんだろうと結論は出ない。キリスト教はヨーロッパ人にとって、押し付けられたもので、自分たちで全知全能の神を機能しようという試みが合理的理性的主体の人間という概念や、世界の仕組みを解き明かす科学になったという。すっきりした話になっている。

 それは大枠の話で、小さくは、キリスト教にも土着の神様と結びついたところもある。そして、実際に、今後どういう風になるかは語られない。キリスト教といっても様々であろうし、印象としては、ヨーロッパの長い歴史に踏まえられた文化と、アメリカの文化は異なる。だから、単純に一神教多神教という構図で捉えられるものは大まかなものだろう。一神論的なものと、多神論的なものくらいにした方が細かく見るには有効だろう。ただやはり一神教的なものがあることはある。そういうものが実際に具体的に社会でどういう風に機能するのか、してきたのかを個別に知ることが知識になると思われた。またそのあたりを話として知りたいと思った。例えば、西洋の統治者は民の前に君臨してパフォーマンスする伝統があり、東洋の統治者は隠れて威厳を示す伝統がある。統治者という一者があまねく民にその姿を見せて、社会まるごと一括的に統治し民もそれを受け入れるイメージと、統治者という一者が隠れて社会は社会でそれぞれ民がやるという風に統治者と民がかけ離れているイメージ。それは正確じゃないかもしれない。けども絶対という観念は具体的な形で今でも世の中に影響を与えていて無縁じゃない。むしろ多神論的なものの話を知りたくもなった。