dmachiの日記

読書メモなどです。

『暴力はどこからきたか』感想

 2007年山極寿一著。霊長類学の研究が語られる。詳細に霊長類の群れの仕組みや食をめぐる動きや性をめぐる仕組みや群れ内外の葛藤のことが語られる。それを元に人類のことが語られる。

 大まかには、食と性と外敵の捕食者が群れ方の性質を決めて、群れの争いの種になると理解したが、細かく種によって、群れの性質が違うことなど、細かく書いてあって、全部理解していないので間違っているかもしれない。昼行性か夜行性かも関わる。

 基本的には、霊長類学は、霊長類に備わる行動の必然性があり、それを見定めて、そして他の要素との相関関係を探ったりなど、そういう学問らしい。実際にゴリラなどと一緒に行動をし、様々な物を観測して、様々な情報を作り総合的に論理を編み出すというような。本書には実証されたものもあれば、推論されたものもある。専門的な内容は素人には時にこんがらがった。何が要因で何がその結果か、その順逆がこんがらがる。なおかつ、いかにももっともらしい仮説がありそれが示されそれに反証されされたり補足的な説明がされたりして、読んだ後でもはや何が正しい説なのかの判断に自信が無い。

 例えば、群れのサイズの仮説に、群れが大きいと群れ内部での争いのコストがかかり、群れが小さいと群れ間の争いのコストがかかるというものが挙げられる。その両者のコストが拮抗するサイズに落ち着くという説だが、サイズの要因には捕食者の要因もあると書かれる。とかく霊長類やサルの話なので種も多いし一律にこうだからこうなるという話にはなりにくい。割合としてはこういう行動が多いなどということも多い。研究自体がとても古いわけでもなく、新しい発見も近い時代になされる。素人としては、大まかな話を理解するに留まった。そしてその中でやはりというか人類に対する考察が面白かった。

 人間で初めて可能になったのが、複数の家族が集まって近隣関係を作り、上位の地域社会を作ること。そこにインセストタブーがある。霊長類にもインセストタブーや男女の分業や外婚制があるが、人間はインセストタブーを性の競合を避けるという社会的な目的のために利用した。遺伝的な劣性を避けるためではなく。そして、哺乳類として人間は、初めて集団生活とペア生活を両立させたという。人間の家族はその始まりとして、ペア社会から生まれたのではなく、まず群れがあり、そこに家族というペア社会を可能にする仕組みができた。そういう順番。インセストの禁止によって、家族同士の連合もできて、同性間、異性間の親和的な関係性も作られた。

 ゴリラにはサルと違って、優劣関係が厳しくなく、食をめぐっても、劣位の者が、優位の者をどかし樹皮を食べることがあるという。それは、食が単なる競合や葛藤の元になるのではなくて、むしろそういう葛藤を利用しつつ互いを許容し共存することを可能せしめた。そんな風な、本能的なものを利用するというやり方が霊長類に見えていて、そこに共感の萌芽がある。

 人間には、生物学的に、共感や気遣いを元に仲間と共に在るという状態を生存しようとする性質がある。ただしそれは狩猟採集民族に見られるような、最大150人程度の共同体で、直接的に実現される。家族があり、家族同士の連携があるというもの。それが、農耕を始めてから、変わった。集団の規模が大きくなり、いい土地悪い土地の境界ができ、土地への所属意識が高まり、少数の「われわれ」だけでは済まなくなって、互酬性のような公正さを担保するルールが求められた。またそこには土地を管理する権力者も登場した。

 一万年前に農耕が始まって以来、象徴的なものを通じて、人類は集団として大きくまとまってきたのが歴史だ。その途上で、科学が発達し、経済活動が資本主義の制度として社会と密接になり、人々の暮らしは変わってきた。そして社会の中での人間関係も変わってきた。著者は、人間が社会性として持っている根源的な共食や育児の共同などをやり、小さな下からの共同体を作っていくことを提案する。それで社会に知と力を取り戻していけると。それは力強くもっともな提言だと思う。それと共に今の社会がどういう社会かが気になった。人間の根源的な社会性、共同体の在り方が示されたことにより、今のそうではない社会がどういうものかが対象化され得る。ただ、その今の社会の性質がどういうものか、その象徴のシステムや、科学技術や資本のシステムなど。それが具体的にどう街を変えて、人の行動を促し縛っているか。そういうことを考えさせてもらった。

 

<以下メモ書き>

 人間の特徴はインセストの禁止と共食で行われた共存による家族の誕生。家族は独立した集団ではなく、他の家族と密接につながっている。異性間には非性的な親しさが同性間には性的な競合に陥らない親しさが保証され、それが家族の原型。そこに食の家族での家族同士での共有があった。

 食の共有は、互酬的な分配のためというよりは、集団の「われわれ」という協調それ自身のためであり、二者関係の贈与をなるべく避け、共生、共在を強める。分かち合い協調する文化。

 狩猟採集民族は、サルのように、食物の取り方に合わせて社会関係を作るのではなく、食物を操作して社会関係を作る。それが嫉妬や憎悪を出さないための複雑なルールやエチケットを生んだ。

 人間が言語を持ったのは数万年前。言語の前に歌があった。音楽は人の感情を揺さぶり、人の気持ちを動かす力を持つ。それで、「われわれ意識」が強まる。子守で歌が発達したという説もある。子守歌のトーンやピッチは世界共通という指摘がある。

 本来の150人ほどの共同体では互酬性的なやり取りをせずとも、所有を禁じて不公平や富の偏在を無くせる。共同体の規模を広げようとして、贈与を介する関係が必要になった。それは互酬性の社会的なコストの増加も意味する。共同体内部の互酬的な関係の維持のために土地の拡大や富の蓄積が推奨され、かつ、他の共同体との軋轢を生んだ。

 一万年前の農耕の出現により人々の間に境界が生じた。農耕への大きな労力とその報酬。豊穣な土地とそうでない土地の違い。そこに、土地の所有者を明確にする必要が生じ、労働した者とそうでないものへの分配の差が生じた。

 漁労民や狩猟採集民は点で空間を把握し、あくまで集団のアイデンティティが個人をつなぎとめたが、農耕民は土地という面での把握が進み、個人と集団が土地に帰属され、土地を管理するものが大きな権限を持ち、集団を支配することになった。その農耕による構造的改変が、土地や境界をめぐる争い、集団間の争いの素地になった。

 土地への所属意識が、先祖代々のものという意識も生み、墓も生んだ。死者からの家系を大事にすれば、土地の権利も守れるということになる。

 人間の社会性を支える根源的な特徴は、育児の共同、食の公開と共食、インセストの禁止、対面コミュニケーション、第三者の仲裁、言語を用いた会話、音楽を通した感情の共有など。霊長類から受け継ぎ、独自の形に発展させたその能力は権力者を生まない分かち合う社会を作った。育児の共同を中心にして共同体が営まれた。それを利用して、人間の社会の知と力を作ることができるし必要だ。