dmachiの日記

読書メモなどです。

『日本人の心』感想

 1984年相良亨著。題がそのものずばり。古代、中世、近世、近現代の日本の文献を元に、そこに表れているこころを論ずる。章立てが、交わりの心、対峙する精神、純粋性の追求、道理の風化、持続の価値、あきらめと覚悟、死と生、おのずから。

 読んでから時間が経って、もはや中身をあまり覚えていないが、中身とは別に、こういう学者の本には毎度、その背後にある研究量とその丁寧な論じ方にびっくりする。基本的には、章立てがよく中身を表しているとも思う。が、印象に残ったのは、おのずから。自然という言葉の含意の変遷があり、天と地そのもの全宇宙的な意味合いの自然や、木や草を対象的に意味する自然や、人を含む世界としての自然という区別が歴史的には順不同だがあったという感じだった。その辺りを、「おのずから形而上学」として言語化し普遍化することが課題だと著者は言う。それは困難なことだろうとも思われるが、そんな課題というか、思考に値する領域があるという指摘自体に意味があるだろう。

 けども、そもそもこころを論じるという試み自体が、どういうことなのか。「日本人のこころ」という題だから、日本人に特徴的なこころがまず前提されている。文献や歴史的事実から読み取れる、こころというのは、言葉を対象としていることは間違いない。教説や物語や歌から、行動や感性や理念などが読み取れる。そしてそれは過去のものだ。実際の人のこころというものが、絶えずたゆたいながら変化するものとしてあるのだから、基本的にはそのこと自体を説明することは困難だ。だから、その試みは、ある種の観念を示すことで納得せざるを得ないとも言える。そうするとそれはある種の道理やモラルになるのかなあとも思う。しかし、それだけでもなく、この本では、特に親鸞自然法爾という言葉に深いものがあると示す。だからおのずから形而上学と論じられる。

 そうなるとそれは思想で、では思想とは現実社会において、どんなものとしてあるのかとも考えられる。たぶんそれが時代や社会によって、その意味する中身が変わるし、位置づけも変わる。けども普遍的に、思想が社会にとってどんな位置づけなのかが変わらぬものとしてある領域もあるのかもしれない。よく考える人は、昔からどこか、俗世間から離れて考える傾向にあるだろうから、そこに意味があるのかもしれない。俗世間とは直接には関わらないが、しかし間接的に関わるというような。しかし、それも過去の一時期の話かもしれない。もしかしたら、俗世間の中で、日常的に、いかにも思想という長大なものでなく、場面場面に表れざるを得ない思想という形もあるのかもしれない。

 昔の人は大昔を知っていて、大昔を理想として考えた。それが次第にわからなくもなってきたのが歴史だ。そして、国を治める、民を治めるということとも思想は関係していた。けども江戸の大阪の商人は世に不思議な事などは無いと言った。では彼の思想は何かとも思う。そうなると、僕などの学者でもなんでもない者は、思いつくのは、養老孟司氏が言った、西洋は行動する自由で、日本は感じる自由だというものだ。きちんと概念を立てて、それに基づいて行動したり、行動の中で、その概念を絶対視するというような思想は西洋っぽい。たぶん日本はそういう思想では無かった。家の名誉や恥に関して徹底的にこだわり、生き死にをした武士も、概念を絶対化して行動を左右させたというのとは違う気がする。何かやっぱり、日本は、稲作が始まったのも遅いし、歴史的には後進国で古い文化が残っていた方なのだと思う。それが明確にどういうもので、どこにそれが表れていて、それがどれくらい無くなってきているのか、とか、そういうことはどうなのかとも思うが、知恵無く、万物流転という他なくなってもくる。