dmachiの日記

読書メモなどです。

『小林秀雄の恵み』感想

 2007年橋本治著。著者は小林秀雄論というよりは、小林秀雄の思想を必要とした時代や人々に関心があるという。そのために『本居宣長』のテキストを中心にして、そのテキストや小林秀雄を読解していく。一言でいえば彼の思想は、「読むに値する本を読め」だという。著者の明確で公正な読解がとにかく続く本。

 本書には近世についての説明がある。近代の知性である小林秀雄と線引きされるものとして近世を説明しているのだが、それが面白い。日本における近世の社会の秩序や神や。近世は、神という非合理で根本的なものを棚上げにしたままいたって平気に合理的で現実的だった時代という。そして日本には個人に対応する神はいなかった。古事記でも人間はいつのまにか、神が産んだ自然のあれやこれやの中に住まうということになっている。とはいっても西行など自分を持った人はいた。彼には、自分という個に対応する何かがなく、空白があった。それが出家の結果でもあれば、歌を歌い続け生きる動機でもあった。それは恋人という概念のない時代の個人の生き方だった。ただ仏教は個人の同伴者としての仏をあらしめた。近代では、友人という同伴者や恋人という個人のゴールとなるものがあるが、そこには同伴者や恋人のいない近代の孤独も生まれ得る。そのように近世や近代の線引きが語られる。

 日本では「信仰」は、「自助努力ではどうにもなりがたいせつなさ」を埋めるもので、「せつなさ」に対応するものだ。日本人の宗教は空白を埋めるものではなく、空白を作り出すことを当然とするものになっていた。だから自助努力の必要が生まれた。西行は出家して孤独を引き受けることになったが、出家したにも関わらず現実社会の外を基点とせずに、現実社会を基点として思考した。そのずれによる苦しさから、自分を押し出すような、生の歌を詠み続け、現実社会に生きる人と共鳴した。方や、芭蕉という人は、己をむなしくして、古池や蛙飛びこむ水の音、という時、水の音が神であり、水の音自体を聞いてもおらず、神と対峙できていて、そしてそれができるほどに強い人だった。という。そういう捉え方がとても面白い。

 本居宣長にとっては、古事記の世界が本当の世界であり、桜が恋人であった。そしてもののあわれを知るとは、エモーショナルなものを我が身に備えることだという。物事に触れて心を動かすということ、それをもののあわれという言葉で指し示した宣長は自分の好きな歌読んだ歌人だった。かつ厳しい江戸の秩序を守った生活者でもあった。そういう近世の在り方に、小林秀雄は近代を当てはめて考えた、そこに難解があったという。著者はすんなりもののあわれが理解できるといい、小林秀雄はそれをどういうものか考えて知ろうとした。そして小林秀雄の批評はトンネルとしてあり、読者はそこを通ることに、その経験に意味があった。そのトンネルのゴールは読者毎に違う。そのようなものとして、小林秀雄の時代や読者があった。というようにまとめてみてもまあ、、凄い本だった。著者の、人の在り方、人と人の関係の在り方、というところから導かれる膨大で細やかな論理。